無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8918日 過去を語るとは?

この手の本はもう読むまいと決めていたんだが、息子にもらったアマゾンギフトが残っていたのでついつい神立尚樹著「戦士たちの遺言」を購入してしまった。今まで数十年の間に所謂戦記物というジャンルの書籍をどれだけ読んできたがわからないが、語り部の語る内容はその時の時代や自身の置かれたおかれた状況によってずいぶん変わってくる。

誰でも思い当たるだろうが、私自身若い頃の行いを思う時、知らず知らずの間に今の自分を物差しにして判断していることがよくある。60年以上前のことだが、空手の組手稽古中に下級生のA君が骨折したことがあった。その当時はかなり荒っぽい稽古をやっていたので、仕方がないことだと自分も周りも深く考えることは無かったし、学校からも注意されることはなかった。

ところが、今この件について感想を求められたとしたら、非常に申し訳ないことをしたと平謝りをすることだろう。なぜなら本当は骨折の原因となった最後の前蹴りは、すでに戦意を無くしたA君には必要なかったことをはっきりと覚えているからだ。70歳になった今の私の価値観ではこれは許されない行為だ。

人の腕の骨を折ったという現実は一つだが、それに対する感じ方このように移り変わるとしたら、事故直後に感じたことが正しいのか、30歳の時に感じたことが正しいのか、今の感じ方が正しいのか。

つまりこれと同じ問題を「戦士たちの遺言」がはらんでいるということにはならないのだろか。

語っている人は戦後をうまく生き抜いてきた、ある意味成功者でもある。80年近く前のことを事実としては覚えていても、その事実について今の感情で語ることにためらいはないのだろうか。おそらくこの本に出てくる人たちが、戦争体験者最後の語り部になるだろうから、これで上書きされてしまうかもしれない。だが、本当にそれでいいのか疑問は残る。