無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9346日 テレビを見ると馬鹿になる

毎年夏になると、テレビでも大東亜戦争終戦に関する番組が放映されるようになる。若い頃はよく見ていたが、本当の戦争体験者が少なくなるにつれて、だんだんとみる気が失せてきた。本当の体験者がいなくなったのをいいことに、テレビ番組制作者側の思想的偏向や誘導が目に余るようになったからだ。

子供の頃テレビを見ていると、親にテレビなんか見てると馬鹿になるからやめなさいとよく言われた。これは子供の勉強がはかどるようにするための方便だと思っていたが、最近では案外正鵠を得ていたのかもしれないと思っている。

今年は政府主催の戦没者追悼式を見ていて、ふとこれをいつまでやるんだろうと考えてしまった。親兄弟子弟等の当事者がほとんどいなくなったのに、その孫やひ孫を集めてまでやることなんだろうか。

戦争とは「先の大戦大東亜戦争だけではない。明治以降に限っても、日清日露、義和団の乱、シベリア出兵、尼港事件、第一次大戦ノモンハン事件、張鼓峰事件等様々な戦場で多くの軍人が国のために働いて戦死したことは忘れてしまったのか。

原爆記念式典も同じだ。原水爆禁止などというスローガンがイデオロギーに毒されていることは以前から知られていることだが、核攻撃を無効化するような画期的な兵器が出てこない以上、いくら祈っても核兵器が無くなることはないだろう。

それに核兵器禁止を祈念するなら、被害国日本ではなく加害国アメリカやほかの核大国でやればいいのに。被害国日本が「あやまちは繰り返しません」などと馬鹿なことを言っているんだから、付け込んでくるんだろう。

原爆記念式典も、世界で唯一の被爆国、すなわち世界で唯一核を持つ権利を有するはずの、日本の核武装を防ぐための装置かもしれないと思うのはうがった見方だろうか。

或いは、戦没者追悼式や原爆記念式典で平和を祈るのも1つのセレモニーとして、どこかの利権に繋がっているのかもしれない。

75年目の今年なんかちょうどいい時期だったと思うんだが過ぎてしまった。次は5年後の80年あたりでやめようという政治家はでてこないのだろうか。この政府主催戦没者追悼式と原爆記念式典二つの行事をやめる時が、敗戦の呪縛を離れて、前を向いた真の意味で独立国に脱皮できるときではなかろうか。