無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8181日 日本は日本人の住む国

最近川口市でのクルド人不法行為や大分のイスラム教徒の土葬要求、中国人の不動産取得、背乗りりや日本人誘拐、生活保護国保不正使用等外国人がらみの問題が浮き彫りにされてきた。すべてが日本人の持つ性善説を逆手に取られたもので、そろそろ外国人に対する考え方を改める時期にきているのではないだろうか。

基本的には外国や外国人とことさら仲良く接する必要はないし、別に嫌われても良いということだ。日本のルールに従えないならとっとと出て行ってもらえばいいので、そこに感情を交えるべきではない。いい外国人とは仲良く、ルールを守らない外国人はさようならだ。

それに反対する人たちの中ではグローバル化などいう言葉が飛び交っているが、これによって世の中が安全になったのだろうか。少なくとも外国への移動が困難な時代には世界同時多発テロなどというものはなかったし、一部地域の民族紛争が即座に他国の社会を混乱させるということも無かった。民族同士のいがみ合いも地域に限定されていた。国家の枠を取り払うとすることがどれほど危険なことか、多くの国民はなんとなくわかってきているのではないだろうか。

そもそも言語も文化も歴史も宗教も教育も肌の色も違う人たち同士が狭い場所で共生できるのかどうか、主義主張を捨てきれいごと無しで今一度真剣に考えた方がいい。私は無理だと思う。だから国境ができたのであって、これも争いを避ける知恵のひとつだったのではないだろうか。

もちん今すぐに国境を閉じることは不可能にしてもビザの復活はできるはずだ。少なくとも敵対国や教育レベルの違う国、価値観を共有できない国、強制送還を認めない国、犯人引き渡し協定のない国はすぐにでも復活すべきだろう。ほんの数十年前までは海外に行くには必ず相手国のビザが必要だったのだから多少の不便は仕方がない。少なくともトルコのビザ復活は急がれる。

あと8185日 Aさんに幸あれ

Aさんについてもう少し思うところを書いてみよう。4年前に前委員から引き継いだ独居高齢者は15名いたが、そのうち3名が亡くなり2名が老人施設に入居した。仕方がないこととはいえ、民生委員としての期間が長くなり付き合いも深くなるにつれて見送る寂しさも増してくる。

Aさんはもちろん人生の大先輩でもあり、本人や近所の人から聞いた限り、かなり苦労された方のようだ。娘さんが一人いるが、結婚して県外に住んでいるため面倒をみてもらうことはできなかった。しかし、娘さんは気にかけて有料無料の福祉サービスは受けていたし、夕方6時に必ず電話をかけて安否確認もしていた。耳が遠いので呼び出し音が聞こえないので午後6時に電話を取ると決めていたようだ。

「自分の親をほったらかして亭主の親の面倒をみるのはおかしい。」と近所の人に話していたそうだが、たしかに同じ独居高齢者でも子供が近くにいるのと県外に住んでいるのとでは状況は全く違ってくる。元気なうちはそれほど感じなくても弱ってくると子供の存在は大きくなることだろう。子供と過ごした楽しかった日々も思い出されてくることだろう。

私の両親も私が帰ってくることを望んでいた。兄は自衛隊で全国異動していたので早くから諦めていた。32歳の時に転職話を断って帰ってこなかったら、母親が亡くなったあとに残され父親はAさんと同じ状況になっていたはずだ。もしもあの頃、「親のことは気にしなくていいからどこにでも行って好きなことをやれ。」とでも言われたら、おそらく帰ってくることはなかったかもしれない。しかし親はそれは言わなかった。強がらず正直だったと言えるのかもしれない。

Aさんはどんな気持ちで娘を見送ったんだろう。つらかっただろうし言いたいこともあっただろうが、娘の幸せのために我慢したことだろう。今日Aさんのケアマネさんが来て、Aさんの御主人が入っていたのと同じ施設に入ることができたこと、その施設にはそのことを知っている人が大勢いて迎え入れてくれたということを話してくれた。

新しい環境に慣れて、残された時間を今度は自分の幸せのために、少しでも長く楽しく過ごしてほしい。

あと8187日 Aさん施設に入る

担当していた独居高齢者のAさんが家を出て施設に入ることになった。93歳だからひとりでよく頑張ったと思うが、少し痴ほうがでて足も弱っていたから潮時だったのかもしれない。心配していた近所の人達もそれを聞いてほっとしていた。ここ数カ月は家に行っても出てくることはなくなり、毎日来ていたヘルパーさんからいろいろ今の状況などを聞いていた。

Aさんを知ったのは4年前に民生児童委員を引き継いでからだった。そのころはまだ玄関先で呼んだらでてきていろいろ話もしてくれていた。ただ耳がほとんど聴こえないので普通の会話はなりたたず、Aさんが一方的に大声で話すのを黙って聞くことがメインとなり、必要に応じて紙に書いたものを見せるというという形態だった。

Aさんはとにかくよくしゃべってくれた。昭和の初め頃に生まれた人は苦労された人が多いが、このAさんも家業の米麴製造の手伝いで小さい時から苦労されたようだった。2人の姉が先に嫁に行ったので、下の弟が高校を出て一人前になるまではお金を稼がなくてはならない。暑い夏は工場で下着になって一生懸命働いた。

弟が一人前になって働くようになるとようやく自由になった。しかしその頃には婚期を逃してしまい嫁に行くことも諦めていたが、「それでも嫁に行けたんだからよかったよ。」とにっこり笑った。その笑顔がなんともかわいい人だった。

結婚したAさんは生活のために、パチンコやスマートボールの店舗をあちこちに持っていた、S興行という遊技場に勤めることになった。変な客もいていろいろ嫌な思いもしたが、社長さんが良い人で楽しいこともたくさんあった。そして耳が悪くなったのはパチンコの騒音の中で何十年も働いたせいかもしれないというようなことも話していた。

確かに騒音の中で仕事をすると難聴になりやすいということは、Kラインで機関長をしていた友人のT君も補聴器を付けていたからよくあることかもしれない。ただ同期でも難聴になってない機関長もいるから、個人差もあり必ずなるということではないのだろうが、Aさんと知り合って耳が聞こえないということが社会生活を送る中でどんなに不便なことかということを知ることができた。

ある日社長さんが職場にやってきて、「すまないが辞めてくれんか。」と言われた。まだ働けたんだが、お世話になった社長さんに言われたらしかたがない。その時社長さんが「ごくろうさん。」と言って100万円を渡してくれた。「何の期待もしてなかっただけにこれは本当にうれしかったなあ。」と話す笑顔のAさんを見ながら、私は思わず「いい社長さんで良かったですね。」と話しかけていた。

元気なころは手押し車を押して時々うちの前を歩いていた。それに気が付いて手を振るとAさんもにっこり笑って手を振ってくれた。施設での幸せな余生を祈らずにはいられない。

あと8213日 チョコザップ入会

会員数が100万人を超えたと今話題のチョコザップだが、今年7月に家から歩いて7分くらいのところに新規開店した。会費が税込み月3278円で24時間365日利用できるし、今なら入会料無料という宣伝文句につられてすぐに入会した。このようなジムに通うのは50年ぶりになる。

その頃東京でぶらぶらしていた私は、中央線の車窓から見えた「チャンピオン誕生」という大きなボディビルの看板を見てちょっと興味を持った。どうやらそのジムからボディビルのチャンピオンが誕生したらしい。もうジムの名前も覚えてないが、それは中野駅から少し南に行ったところにある小さなビルの地下にあった。10段ほどの階段を下りると受付があり、そこにごつい体のお兄さんが座っていた。体はごついが穏やかに話す感じのいい人だった。

開店早々だったからかジムは無人で、その人も暇そうにしていたのでいろいろ話を聞くことができた。「私のような一般人でもそんな体になれるんですか?」と聞くと、その人は「なれます!」と明快に答えた。とりあえず入会することにしたが、正会員は会費が高かったので、利用時間を制限された安価なクラスに入会したように記憶している。

最初マンツーマンで器具の使い方を教えてもらい、ベンチプレスも余裕を持って20kgくらいから始めた。暇すぎて時間を持てましていたので頻繁に通ったような気がするが、同じ時間帯に来ていた人が話し好きで、いろいろ面白い話をしてくれるので、そちらのほうが忙しく、一生懸命重たいものを持ち上げたという印象は残ってない。始めて2~3カ月で板橋区に引っ越しすることになり、残念ながら何の効果も無いまま辞めざるを得なくなった。

そんなことを思い出しながらチョコザップに行ってみると、ごつごつした器具が所狭しと並んでいた中野のジムとは違って、スマートな器具が整然と並び、中年の女性と学生風の若者が黙々とトレーニングをしていた。ボディビルダー養成という目的ではないのでそれなりの設備だが、それでもかまわないという層の人にとっては非常に快適な施設だ。誰からも干渉されず、24時間、QRコードで勝手に入って勝手に出ていくという新しいスタイルは、今までジムとは無縁だった新しい層を掘り起こしたといえるのかもしれない。

あと8216日 マインドコントロール

「閉ざされた言語空間」などによって暴かれたGHQによる検閲だが、最近これが一般に知られるようになり、GHQの横暴として非難の声もきかれるようになった。ところが小室直樹著「日本国民に告ぐ」によると、GHQはもともと大戦中に日本のマスコミで行われていた自己検閲を利用しただけだということらしい。

マスコミの自己検閲は、軍部の検閲で本刷り直前に削除されると出版が遅れて経済的損失を受けるので、それを避けるために予め自らが厳しくチェックするということから始まった。元々検閲当局のうけをよくするために嫌々ながら始めたものだったが、それがどんどん自己増殖して、最終的には当局より厳しい方向に向かった。

その結果自己検閲は軍部も乗り越え、マスコミを主戦論一色に染め抜いて政府も軍部も国民も戦争へ引きずっていったということのようだ。最早当局は非戦論を弾圧する必要はなかった。編集者による自己検閲で、そのような論はとっくの昔に必要以上に削除されてしまった。こうしてマスコミによる自己検閲の事実を知らない国民は簡単にマインドコントロールされてしまった。

戦後それに気が付いたのがGHQだった。自己検閲を発明したのは日本のマスコミだが、GHQはこれを活用して言論の自由を振りかざしつつ、有史以来想像もつかないほど完ぺきに日本人のマインドコントロールを完遂したのであった。そしてこのマインドコントロールの仕組みは独立後も続いている。その延長線上に慰安婦問題、南京問題、教科書の近隣諸国条項題等がある。その過程については本の中でいろいろ考察されているのでぜひ読んでほしい。

私自身こんな大嘘がなぜ通るのかと不思議に思っていたが、この本を読んでなんとなく理解できた。ただ、最近ではインターネットが普及したせいでマスコミの力が削がれてしまったので、マインドコントロールが効きにくくなってきている。それによって民主主義本来の姿であるいろんな問題について議論ができるようになってきた。慰安婦問題も朝日新聞が白状したし、南京事件もなかったと言っても社会から抹殺されることはない。

たしかにこれらはいい兆候ではあるが油断はできない。一方で、あることをタブー化することにより、そのことについて批判することはもちろん、議論することもさえも認めないという流れが作られようとしている。法も政府も国民もそういう空気に流されて黙ってしまうということは、戦中戦後マスコミがやって来た自己検閲を、今度は国民一人一人が自分の心に対して行うということだ。

これは恐ろしいことで、行き着く先は物理的な争いであり、社会の崩壊となるだろう。

小室直樹直樹著「日本国民に告ぐ」を読んでいろいろ考えさせられたが、インターネットアーカイブでも無料で読めるので是非多くの人に読んでもらいたい。

あと8221日 倭健命(やまとたけのみこと)

伊吹山で重傷を負った倭建命は三重県亀山市の能褒野で崩御し、魂は白鳥となって浜へ向かって飛んで行ったと古事記には書かれている。能褒野に着いたときに、倭を懐かしんで読まれた歌。

倭はくにのまほろば 

たたなづく あをかきやま

ごもれる 倭しうるはし

父である景行天皇に命ぜられるまま北関東から蝦夷まで平定しての帰り道、懐かしの倭を目前にして力尽きた。

この話は子供の頃から断片的に読んだり聞いたりしてきたが、古事記を実際に読むまではすべて作り話だと思っていた。それどころか古事記自体が不確かな遠い昔の話で、科学的な検証には耐えられず、歴史的には意味のないものだと信じ込んでいた。知らぬ間に日教組教育に洗脳されていたといえるだろう。

しかし、旧石器時代から3万年にわたって連綿と続いた日本列島の歴史を鑑みると、古事記の世界のなんかはつい最近の出来事のように感じてしまう。古事記の書かれた時代を古代と分類することすら烏滸がましいくらいだ。

倭建命崩御の地としては三重県亀山市能褒野王塚古墳と三重県鈴鹿市加佐登神社裏の白鳥塚があげられている。本居宣長は白鳥塚が正しいと言っていたらしいがどうだろう。

相曾誠治氏の「言霊と太陽信仰の神髄」では次のように話している。「その御霊、分霊は能褒野の御陵(三重県亀山市)の上から白鳥になって西方に飛んでおられます。能褒野に参拝したことがありますが、山の上のたいそう清らかなお社です。」

私自身歩き疲れた頃、遠くに小さく王塚古墳が見えた時、ここから白鳥が飛んで行ったのかと、なにかこみあげてくるものがあった。

しかし、最近読んだ宮崎正弘著「歩いてみて解けた古事記の謎」では次のように書かれてある。「嗚呼、ここが稀代の英雄ヤマトタケル崩御の地なのか。であるとすれば強い霊気を感じるはずだが、崩御の場所は神社境内ではなさそうである。現に本居宣長は手前の白鳥御陵がヤマトタケルの御陵と判定した。」

宮崎正弘氏は残念ながら霊気を感じなかったらしい。いつものように歩かずに、タクシーで大急ぎで回ったことが感覚を鈍らせたのかもしれない。

文字による記録がない時代のことは誰にも分らない。誰がどのように想像をふくらまそうと自由だが、私は崩御の場所は能褒野で間違いないと確信している。

あと8243日 チャイニーズバブル崩壊

いつの間にかコロナもあまり気にしなくていいような雰囲気になり、海外からも多くの観光客がやって来たのはいいが、今度はオーバーツーリズムだなんだと話題になっている。その上チャイナが団体旅行解禁というからどんなことになるのかと思っていたら、処理水放出がけしからんといってこれが中止になりそうだ。チャイニーズ相手にぼろ儲けを企んでいた一部の業者は困るだろうが、これが事実なら多くの日本人にとっては渡りに船で大助かりだ。

商売は損をするというリスクをとって儲けを得るもので、必ず大儲けできるのならサラリーマンになる者なんかいなくなるだろう。リスクの中には当然自然現象や政治や外交によるものも含まれ、保険に入るなりなんなりして自分で対策をとるしかない。チャイニーズが来なくなっても多くの国民は何の痛痒も感じないどころか、逆にほっとする。

商売は当たれば大きいということは、いとこのTさんを見ていてよく分かった。3回不渡りをつかまされて、一度は首をくくるしかないとまで思ったことがあったらしいが、それらをなんとか乗り切って、今では大きな財産を持ち悠々自適の生活を送っている。そのTさんが、当時高校生だったうちの二男に商売だけはやめとけと話していた。

「手広く商売をやっているのを、端から見ているといいように見えるかもしれないが、本当は大企業のサラリーマン、そして公務員、これが一番ぞ。」Tさん自身は勤め人が嫌で商売を始めたはずだが、人生すごろくを一回りしてこういう結論に達したのか、リスクをとることの怖さも身に染みているのかもしれない。

それにしても不思議なのが、リスクをとるはずの商売人たちがチャイナのバブル崩壊を見ていながら敏感に損切ができないことだ。それどころか、これから進出予定なんていう企業もあるようだが、まだ向こうで儲かると思っているのだろうか。これから出張で派遣される日本人社員もたまったものではないな。

あのTさんの会社も昔はこじんまりと瀬戸内で採れる魚を材料にしていたが、大手スーパーに卸すようになり、その量が増えるにつれてチャイナと関りが強くなっているようだ。まあTさんの事だから手は打ってあるだろうとは思うが、どの企業も経営者の優劣がはっきり出てくるようになるだろう。