無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9159日 民主主義の終焉

清濁併せ呑むという言葉は、人物評としては人間の大きさを示す誉め言葉のように思っていたが、最近はそうでもないようだ。歴史上に名を残し、社会に大きな影響を与えてきた、ある面では悪人であり、また別の面では善人でもあるような、ある時は偉人と呼ばれる、所謂清濁併せ呑む人達は、情報が一方通行だった時代を生きてきた幸せな人達だったのかもしれない。

例えば原敬大隈重信とか歴史教科書に出てくるそれぞれ大きな仕事をした人たちだが、当時の人はこれらの人物についてどれほどのことを知っていただろうか。汚職とか、よほど大きな不法行為をしなければ、どこで何をしゃべったとか、誰と会ったとか、何を食べたとか、細かい情報が伝えられることは無かった。

ある人は妾を持ことは男の甲斐性だと放言し、政治資金で高級料亭に入り浸っていたのかもしれないし、多少の賄賂は受け取っていたのかもしれない。しかし、そんなことに誰も興味を持たず、ましてや貴重な紙面を割いて報道されることも無かったはずだ。

情報が少ないがゆえに、国民も無意識のうちに加点方式で評価していたと言えるのかもしれない。逆に言えば、だからこそ思い切ったことができたのかもしれない。

昨今、昔と違ってろくな政治家がいないとか、小粒になってしまったとか嘆く人もいるが、それは少し一方的すぎるのではないか。妾なんかを囲っていたらそれだけで人間失格の烙印を押されてしまうし、小さな内輪の会合でしゃべった内容の一部を切り取られ、上げ足を取られ、辞職を迫られることもある。酒に酔って領土を取り返すには戦争しかないのではないかと言っただけで、国会議員を辞めろと言われる。

どこに隠しマイクがあるかもしれないし、どこで写真を撮られているかもしれない。写真も簡単に修整できる。たとえ正しいことであってもポリコレ棒で再起不能になるまで一方的に叩かれる。下手をしたら殺される。しかもそれらが瞬時にして一方的に世界中に知れ渡る。代議士は小選挙区で簡単に落選してしまう。清濁併せ呑むどころか、こんな恐ろしい減点方式の世界で一歩前に出る勇気のある人たちは出てこないだろう。

すでに社会では、表面的なきれいごとだけが語られ、誰も真実を語ることができなくなっている。理想も引きずりおろされて、殊更その暗部がさらけ出され、物言えぬ閉塞感が漂う窮屈な社会になりつつある。本当に大多数の国民がこんな社会を望んでいるはずがない。サイレントマジョリティーとしての意思表示の手段として、国民の生き方の根幹にかかわるような問題には国民投票を取り入れることも必要かもしれない。何もしなければ、民主主義の終焉も近いのではないだろうか。