無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8092日 芝不器男の俳句

去年の年末に部屋の掃除をしていて、そこの置いてある小さな額に気が付いた。少なくとも20年以上は前からそこのあったので、気が付いたというのは正しくない。額の中身に気が付いたというべきだろう。

これは両親が元気なころ、芝不器男記念館に行った時に購入したものだ。馬車の切り絵の横に「桑の実や馬車の通ひ路ゆきしかば」という俳句が書かれている。芝不器男は明治36年に愛媛県松野町で生まれ26歳で夭折した俳人で、たった6年の間に多くの俳句を残している。

今まで何の気なしに見ていたこの額だったが、改めてその中に掲げられている俳句を見た時、その素直で純粋な表現に驚いたとともに、どのような境遇にあればこんな俳句ができるのかと、この芝不器男という人物に興味を覚えた。

昭和5年に亡くなっているので、愛媛県でも虚子、東洋城、山頭火、極堂、波郷などのように話題になることは少ない。長生きすればもっと多くの人に知られて、大きな影響を与えることができたのではないかと残念に思う。

麦車馬におくれて動き出づ

あなたなる夜雨の葛のあなたかな

うちまもる母のまろ寝や法師蝉

風立ちて星消え失せし枯木かな

椿落ちて色うしなひぬたちどころ

うまや路や松のはろかに狂ひ凧

谷水を撒きてしづむるどんどかな

芝不器雄の俳句を上に挙げたが、一見なんの衒いも無く当たり前の風景を当たり前によんでいて、その情景がすぐに浮かんでくるようだ。たしかに読む人にそのように思わせるが、少しでも作句の経験があれば、逆にこの情景からこの俳句を生み出すことの難しさがよくわかると思う。

たった6年でこれだけの俳句を生み出すということは、俳句は師匠から学んでうまくなるのではなくて、うまい人は初めからうまいのだと言わざるを得ない。つまり、座の文芸である俳句の結社では、学ぶのは師匠の俳句に対する考え方やその生き方であって、こまかな言葉選びや添削ではない。うまいも下手も師匠に共鳴する人たちが集まり、めいめいが自分の俳句を楽しめるのが句会の醍醐味でもある。

俳句とは、一瞬見た情景を切字を響かせつつ季節の中に取り込むという行為だと思っている。切字は俳句にとっては重要な要素で、これをないがしろにするのは俳句とは言えない。石田波郷が「霜柱 俳句は切字 響きけり」と言う俳句を残しているが、まさにその通りだ。興味があればお笑い芸人がやっている俳句番組をみて、そこで褒められている俳句がどんなものか一度見てみるのもいいだろう。

あと8092日 能登の思い出

元日午前零時過ぎに新年の祝詞をあげて今年も始まった。今年は全員の日程が合わず蟹パーティーが6日になったので静かな元旦になるかと思っていたら、子供や孫の13人がやってきてにぎやかにおせちを食べた。そんな時に起こったのが能登地震だった。

最初珠洲市のカメラ映像が映っていたが、その時はかなり揺れてはいたが普段見る地震映像とあまり変わらなかった。それで収まるのかと思っていたらもう一度大きく揺れて今度はあちこちで家屋が倒壊した砂煙が上がり始めた。それに続く津波警報でこれは大変なことになった感じた。その時なぜか昭和47年、20歳の夏に友人と3人で回った能登半島の美しい風景が頭に浮かんできた。

当時は半島ブームといわれ、能登半島も一人旅の女性に人気があったらしいが、我々は別にそれが目的で行ったのではない.......ような気がしている。その頃の能登半島はとにかく道が悪く、当然車にエアコンなんか無いので、窓を開けて砂埃にまみれながら人も車もあえぎあえぎ走った。しかし地震のニュース映像をみると、この50年で道路事情はかなり良くなっているようだ。

能登では穴水のユースホステルで一泊した。今のような携帯電話が無い時代は直接行って確認するしかない。他に行くところがないので何とか頼み込んで泊めてもらった。くたくたに疲れていたのですぐに寝たいのに、ミーティングに出て一緒にゲームをするように言われたのにはまいった。客を客とも思わないこのようなシステムの施設が今でもあるのだろうか。

翌日は今回の地震で被害を受けたあの見附島に渡った。残念なことに、まさに船体を思わせるような切り立った崖は大きく崩れてしまったようだ。元の形に復旧することは困難だろうし、そんなことをすれば人工物になってしまう。形あるものはいつかは壊れる。あるがままの姿で残していくのが一番だろう。

珠洲という字は当然読めなかった。たしか珠洲から海岸を通って能登半島先端の禄剛崎へは行けないと言われ、山を越えて半島の西海岸から向かったように記憶している。当日は快晴できれいな日本海が広がっていた。この3カ月後には練習船北斗丸からこの禄剛崎灯台を見て七尾湾に停泊することになろうとは夢にも思わなかった。

輪島へ向かう国道を走っていると「時国家」という大きな看板が目に入った。田んぼの中の細い道の先の山際にあったが、当時はそれが何か全く知らなかった。吉川英治の新平家物語でも読んでいればもっと価値が分かったんだろうが、若いだけが取り柄の当時の我々には猫に小判だった。ここも古い建物だったが地震でどうなったのか気になっている。

たしか時国家を出たあたりだったはずだ。砂埃をまき散らしながら国道を走っているとヒッチハイクをしている2人の若い女性に出会った。乗せてあげたいが、定員オーバーとなり、すでに大人3人で悲鳴を上げている2サイクル360ccの軽自動車では無理なので手を振ってそのまま走り去った。輪島では車を停めて朝市通りも歩いたような気がするが、小さな漁村と言う感じでさびれた印象だけが残っている。

長野から能登を巡る旅の始まりだった小淵沢までどうやって行ったのかも、友人とどこで落ち合ったのかも、細かいことはすっかり忘れてしまった。その後小海線に乗り換え、美しの森、松原湖、菅平でテント泊しながら長野の知人宅に向かった。今から思えば本当に行き当たりばったりの危なっかしい旅だったが、国語の授業で暗記させられた島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」に描かれた信州に行ってみたかった。

当時は席上過程がほぼ終了し、夏休みが終われば1年間の航海実習にはいるという希望に満ちた時期でもあり、ある意味二度とかえらぬ人生における一つのピークでもあった。あれから50年が過ぎ、一緒に旅をした3人のうち一人は既に亡くなり、残った二人も年老いた。能登地震からこの旅を思い出してつくづく思うのは、老いていくのも悪くはないが、若いということにはとうてい及ばないということだ。

あの頃の夏の光の中で輝いていた能登を思い出しながら、被害に遭われた能登の人達が安心して暮らせる日が一日も早く来ることを願わずにはいられない。

あと8121日 有事の異才とは

「木村君の兵学校時代の成績と言うものは120人中どんじりから数えて10番目ぐらいだったろう。若い時分は、思慮の浅さから大した男ではあるまいとたかをくくってつきあっていた傾きがあった。その真価というか、かれという人間の本当のえらさがしみじみとわかってきたのはずっとあとになってからである。」

これは文芸春秋(昭和46年11月号)に掲載された「奇蹟を実現したヒゲの提督」という記事のなかで連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介が、キスカ島撤退の指揮を執った兵学校同期の第一水雷戦隊司令官木村昌福少将について語っていたことだ。

華々しい出世を遂げた草鹿が、海軍大学どころか水雷屋でありながらノーマークで、船乗り一筋だった木村など眼中になかったということは間違いないだろう。大東亜戦争さえなければそれで終わった話だった。軍人にとって仕事ができるということは理屈をいうことではないはずだが、自衛隊でも同じだろうが、平時の軍隊は巨大な官僚組織であってハンモックナンバーですべてが決まった。

そういう社会で、仕事ができると言われて出世してきた草鹿が、軍人本来の仕事をしなければならなくなった時、それまで歯牙にもかけてなかった木村が有能で仕事ができる男だったと気が付いたいう事実は、多くのことを示唆しているような気がする。

一体学校の成績とは何なのか?一つの尺度には違いないが、それなら背が高い足が速い家が金持ち、男前、それどころかみんなでじゃんけんも一つの尺度にならないか。学校の成績といったところで、及第点さえとっていれば100点も90点も80点も、社会に出れば違いはない。どうしても順番を付けたいのなら、あみだくじで決めても何の不都合も生じないような気がしている。

最近クイズやドラマなどでも頭脳明晰の代名詞としてやたら東大がもてはやされているが、確かに学校の成績が抜群だったことは間違いないとしても、東大出が幅を利かす政治経済のグダグダぶりをみていると、とても学校の成績と仕事の成果に相関関係があるようには思えない。戦後70年間相関関係があるように錯覚していたのは、それが草鹿龍之介が出世した時代、大東亜戦争前のような平時であったからではないだろうか。

今や世界は予知不可能な、混沌とした今まで誰も経験したことがなかったような、前例が通用しない状況になりつつある。そんな中で必要とされている人物とは草鹿龍之介のような平時の秀才ではない。国会議員の中にも役人の中にもは綺羅星のごとく存在する平時の秀才ではなく、木村昌福のような、どんな不可能と思える困難な仕事であっても、やらなければならないとなったら命を懸けて成し遂げる人物ではないだろうか。

しかし木村昌福が有事の異才だとしても、出番がなければ何もできない。議院内閣制ではそれを抜擢する能力を持つ人がいなければならない。支持率のとおりで、岸田首相には国家を導いていく能力がないことはほとんどの国民はわかっている。一日も早く解散総選挙をして、まさに木村昌福のような人物が現れることを希望してやまない。

さて、せまる増税、物価上昇、中東騒乱、台湾問題、蹴散らせLGBT、さて来年もどうなりますことやら。

来る令和6年が皆様にとってより良き年となりますようお祈り申し上げます。

1年ありがとうございました。

あと8128日 なが~い航海(超勤記録簿)

ハマスの攻撃に対するイスラエルの反撃もエスカレートする一方だが、今度はイエメンのフーシとかいう組織が紅海を航行中の日本郵船が運行する貨物船を拿捕しただけでなく、今後航行中の船をミサイル攻撃するなどと言い出した。そこで大手船会社がスエズ運河を通らない喜望峰周りに変更することも検討中と発表した。

これをネットで知った時のデジャブ感はなんと言ったらいいのか、懐かしいと言ったらいいのか、やれやれと言ったらいいのか、 船乗りをやめる引き金の一つになったあの昭和48年の片道30日のなが~い航海を思い出した。

昭和48年10月6日、今年の10月6日で開戦50年となったあの第4次中東戦争が勃発してスエズ運河が通れなくなり、はるばるアフリカ南端喜望峰を回ってニューヨーク~カーグ島間の原油輸送に従事した。燃料節約のための経済速度で時速10ノット(約18km/h)くらいの自転車より遅いノロノロ運転が延々と続いた。

まさにその航海真っ最中の昭和49年12月の超勤記録簿がでてきた。

12月1日(日) カーゴポンプテスト 航海直

   5日(木) 入港シフトS/B (パースアンボイ入港)

   7日(土) シフトS/B (マンハッタン沖へ移動)

   8日(日) 出航S/B 航海直 (ニューヨーク出航)

   9日(月) 主コンデンサー掃除

  11日(水) ボート操練(エンジンテスト)

  12日(木) 補機グリースアップ

  18日(水) デ・スーパーフランジ修理 ボート操練(エンジンテスト)

  22日(日) ケープタウンS/B 航海直

  27日(金) ボート操練(海上に救命艇を降ろして実施)安全委員会

  28日(土) 缶定期ブロー

  29日(日) ピュリファイア掃除 航海直

  31日(火) 航海直

乗船から下船まで毎日8時間、コントロールルームの無いむき出しの機関室での航海当直をした後にやる超勤作業はだるかった。今では機関室内にコントロールルームのない船など存在しないし、機関科の航海当直が廃止されている船も多いので昔ほどではないにしても、大変な仕事であることには変わりはない。私は耐えられなかったが、この瞬間も家族と離れて遠い海上での激務に耐えている船乗りの皆さんには感謝しかない。

機関室の写真はパースアンボイにあった、向こうが霞んで見えるほど広いと言われたTWO GUYというスーパーマーケットで、250ドル当時のレートで約7万円程だして買ったPolaroidカメラで写したもの。下の写真は映画「ある愛の詩」でアリーマッグローが座ったあたりで撮ったもの。さすがエクタクロームだけあって、50年たってもそれほど変色していない。左に写っているのは先輩の岩崎二等機関士で、気風の良い兄貴分だったが、酒はビール以外禁止という非人道的な扱いの中でおこった船内のトラブルが原因で私より先にやめてしまった。その時のおもしろい顛末はまた後日。

機関室

セントラルパーク

 

あと8152日 一生元気に生きるために

義母は足が弱って一人で歩くことはできなくなっている。90歳という年齢からすれば元気な方だとは思うが、一人で歩けないというのは著しくQOLを下げているのは間違いない。その足が悪くなったことの原因の一つが四国88か所巡りにあるのだから困ったものだ。

足の達者な義父が定年後始めた、四国88か所歩き巡礼旅についていくために、無理をしたのがいけなかったんだろうと私は思っている。弘法大師と一緒に巡礼をして、心身ともリフレッシュして元気になるならいいが、体を悪くしたのでは意味がない。

88か所巡りが宗教活動であるかどうかは個人の受け取り方の問題だと思うが、ほとんどの人にとっては伝統行事に参加しているくらいの気持ちだろう。私の両親はもちろん親戚縁者ほとんどが一度は回っているが、それは単に菩提寺高野山と特別な関係があるからであって格別に信仰心が篤いというわけではないと思っている。父母、叔父、叔母、その他親戚みんな無理をせず、車やバスで回ったから快適な旅だったようだ。

たとえ宗教活動であっても、それが原因で体を悪くするというのは本末転倒だ。元気に生きることより価値があると確信しない限り、歩き遍路はもとより、寝ないで山の中を歩き回ったり、酷寒の滝に打たれたりすることは、社会生活を普通に営むまともな社会人がやることではない。

70歳を過ぎて望むこともそれほど多くはないが、今一番有難いのは、肩が痛い腰が痛いと不定愁訴はあるにしても、そこそこ元気な体が残ったということだ。これは親に感謝するしかない。他に何があっても体が元気でなければ人生も面白くない。元気な体を残す為には、若い時から体に余力を残すことが重要だと思っている。

つまり、人間の体には限界があり、それを超えて体を酷使して各種スポーツや武道に打ち込んで、うまくなったり強くなったりしたところで、のちになって後遺症で悩まされることもある。そうであるなら初めから無理をせず、過重な負荷をかけずにより完全な体を将来に残すことに重点を置くという考え方が、学校体育等に取り入れられてもいいのではないだろうか。

あと8156日 思考の果てに

歳をとるということは、ある意味過去の中を生きるということかもしれない。寝ても覚めても、ふと思い浮かぶのは過去にあった出来事ばかりだ。それも楽しかったことではなく、呼んでも無いの押しかけてくるのは嫌なことや忘れたいことばかりだ。先輩諸氏も通って来た道だと思えばあきらめもつくが、いい加減うんざりしてくることもある。

過ごしてきた72年の人生は、こうした方がいいだろうと判断し、その判断に沿って用心深く進んできた人生であったといえるし、時代もにも恵まれたようで、まあまあうまくいったのではなかろうかと、64歳で仕事を辞める頃まで思っていた。ところがそれ以降8年間の年金生活を、過去とのかかわりの中で送るうちに、その人生観さえも少し揺らいできた。もっとうまくやれたんじゃないかと過去の自分が囁いてくる。

それが呼び水となって、70年の人生であの時こうすれば良かったのか、ああすれば良かったのか、若い頃は考えもしなかったことが次々浮かんでくる。そのまま放置することは許されない。その場で処理しなければいつまでも尾を引いてしまう。そしていつのまにか終わりのない思考の世界に引きずり込まれてしまう。求めても何も得られない思考の果てには虚しさだけが残されている。歳をとるとこういう精神状況にになるとは若い頃は考えもしなかった。

また寝る時になると、そんなことをする必要はないということはわかっていても、ついつい今日一日を過去との関係において総括してしまう。ここでも楽しい結論が出ることはない。何も考えず、朝目覚めたら起きて、一日を元気に過ごして、眠たくなったら寝るという生活が可能になっているにも関わらず、それだけでは満足できず、ああすればもっとうまくいったのではないかなどと、常に過去との関りを求め続けるこの精神の傾向は死ぬまで続くものなのだろうか。

そんなことをいろいろ考えながら送っている生活の中で、最近改めて気が付いたんだが、女房は仕事が無い日は、食事の支度、掃除、洗濯がメインであとはタブレットでゲームをしている。ゲームが好きだということは、昔「上海」をやりすぎてニンテンドーDSの画面に穴をあけたことがあるくらいだから筋金入りで、いまだに飽きることはない。そんな日常のある日、「一日ゲームをしていて人生空しくないか?」と聞いてみた。すると顔も上げずに、即座に「ぜんぜん」という返事が返ってきた。

これにはちょっと驚いたが、これを本心で言っているとしたら、言わんとすることは「何かを得ようとしてゲームをしているのなら、何も得られなければ虚しくなるかもしれないが、ただゲームをしたいからしているのだから虚しいと感じることはない。」ということではないかと勝手に解釈した。

確かに見ていても女房の方が楽しそうだし、その解釈が正しいとすると、この人は生きる秘訣を覚っているのかもしれないなどと考えてしまった。案外女性は理屈ではなく単純に即物的に、今していることを楽しんだ方が実りある人生を送ることができるということを、生まれながらに理解しているのかもしれない。

そして、何かを得ようとして思考に引きずられるのではなく、思考を停止することによってこそ豊かに生きることができるということを、まさに普段の生活の中で体現しているこの人は、すでに私の遥か前を歩いているすごい人なのかもしれないと、尊敬の眼差しでゲームをしている女房を見ている自分に気が付いた。

あと8158日 1970年代

今から50年も前のことだが、ニューヨークからタンカーに乗船するため、パンナムで羽田を14時頃飛び立ち、アラスカのフェアバンクスを経由して、同じ日付の14時頃、無事ケネディ空港に到着した。しかしそこに至るまでの過程は今と違って大変だった。外務省にパスポート作りに行け。できたから外務省まで取りに行け。アメリカ大使館に行ってビザを取ってこい。こんなことで四国と東京を何回も往復させられた。

しかも会社の四国~東京の旅費規定が国鉄利用だったから、四国のローカル鉄道、宇高連絡船宇野線を利用して岡山迄行き、ここでやっと新幹線に乗れたが、それでも8時間以上かかった。これはかなわんと思い、飛行機運賃をだしてくれるように会社に掛け合った。九州~東京は以前から航空運賃支給となっていたことをその時知った。

博多~岡山は複線電化で特急が走っている。一方四国は気動車がカーブの多い単線を走っている。しかも1時間ほど連絡船に乗らなくてはならない。岡山で新幹線に乗るのにどちらが不便かよく考えてほしいと言ったらすんなりと認めてくれた。

こんなことは若い人達は想像できないだろうが、1ドルが300円もした時代であり、簡単に海外旅行ができる時代ではなかった。日本はまだまだ貧しかった。そもそもニューヨークから乗る船もシェブロンのタンカーだった。ドルで給料をもらえたから日本円にしたら結構な金額になったとはいえ、今インドネシア人船員が出稼ぎで日本やデンマークの船に乗るようなもので、体のいい出稼ぎだった。

当時は日本に生まれたら一生日本を出ることがない人がほとんどの時代だった。これは日本だけではない。世界中のほとんどの国の人達も同じだった。同じ国の同じ国民の中で生き、そこには嫌なことも楽しいこともお互い理解しあえる安心した生活空間があり、人種や国同士の争いが個人のレベルで国内に持ち込まれることはなかった。

今、たまにユーチューブで1970年代の風景の動画をみることがあるが、仮令この時代を知らない人であっても、それを見た多くの人がうらやましく思うのではないだろうか。清潔で落ち着いた街並み、しっかりとした教育を受け、戦争を戦った多数の日本人が日本人として堂々と生きている社会がそこにはあった。

グローバル化と言われ始めたのはいつの頃だったのか。経済発展に呼応してビザもいらなくなり、パスポートは市町村で取れるようになり、世界中どこにでも簡単に行けるようになった。そして日本に住む外国人も百万人単位に膨れ上がっているらしい。それでも足りないとして、日本をなし崩し的に移民国家に変えようとする人達もいるようだ。

しかし、私の周囲に外国人との共生社会なんぞ望んでいる人は誰もいない。望んでいるのはただ日本人が安心安全に暮らしていける社会であり、裕福でなくとも調和のとれた落ち着いた社会ではないだろうか。国はそれを支える国民がいて成り立つもので、政府は国民の意思を見誤ってはいけない。それがわからなければ次の選挙で思い知ることになるだろう。