無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7212日 熊対策と人命優先

最近、熊のニュースを聞かない日がない。北海道や東北だけではなく、本州各地で熊の目撃情報が相次ぎ、怪我人や死者まで出ている。かつては山奥の動物だった熊が、人里のすぐ近くまで現れるようになった。学校が休校になり、通学路に警察官が立ち、住民が外出を控える。そんな光景が珍しくなくなっている。

それにもかかわらず、熊を駆除すると「かわいそうだ」「殺す必要はない」という苦情が寄せられるという話を耳にする。もちろん動物をむやみに殺したいと思う人はいないだろう。私も熊そのものを憎んでいるわけではない。しかし、人命と野生動物の命が衝突したとき、どちらを優先するべきかと問われれば、答えは明らかではないだろうか。

熊は人間に悪意を持っているわけではない。本能のままに行動しているだけである。しかし、その結果として人が命を落としたり重傷を負ったりするのであれば、社会は人間を守る側に立たざるを得ない。これは熊が悪いという話ではなく、人間社会を維持するための当然の判断である。

思い出すのは、かつて野犬が社会問題となっていた時代のことである。昔は野犬に襲われる事故も珍しくなかったという。狂犬病の脅威もあった。そこで行政は野犬対策を徹底的に進めた。その是非について議論はあっただろうが、結果として日本は狂犬病を撲滅し、人々は安心して暮らせるようになった。

もちろん野犬と熊は同じではない。熊は本来、山林の生態系を構成する野生動物である。しかし、人里への出没が常態化し、人々が日常生活の中で命の危険を感じるようになれば話は別だ。住民が毎日びくびくしながら暮らさなければならない社会を、果たして正常と言えるだろうか。

現在の対応は、多くの場合、猟友会の善意と努力に依存している。しかし猟友会員の高齢化は進み、危険な駆除活動を担う人材は減る一方である。これほど深刻な問題になっている以上、もはや地域任せで済ませる段階ではないだろう。

必要なのは、人命保護を最優先に据えた明確な方針である。熊の保護そのものを否定する必要はない。しかし、人里に繰り返し現れ、人間に危害を加える恐れのある個体については、迅速に対応できる体制を整えなければならない。そのためには、猟友会だけに頼るのではなく、専門的な訓練を受けた公的なハンター組織を設けることも検討すべきだろう。

人間は古来、自らの生活圏を守りながら生きてきた。自然を尊重することは大切だが、それは人間の安全が確保されてこそ成り立つ価値観である。熊の保護か、人間の保護かという二者択一ではない。しかし、両者が衝突したときには、まず人間を守る。それが行政の第一の責務であり、社会の基本的な約束事でもある。

熊の出没が連日のように報じられる今、私たちは改めて人間と野生動物の境界線をどこに引くのかを考える時期に来ているのかもしれない。自然との共生は理想として大切だ。しかし、その理想のために人々が安心して暮らせなくなってしまうなら、本末転倒ではないだろうか。人間が安心して生活できる社会を守ること。その原点に立ち返るべき時が来ているように思う。