無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8780日 老後を生きる秘訣

石原慎太郎氏が生前、人は死んだら無になるのいではないだろうかと話していたことがあったらしい。これを聞いて、この話が本当ならこの人は靖国神社に何をしに行っていたのだろうと疑問に思ったものだった。人の考え方や感じ方はその日その日のコンディションによって変わるものだと言ってしまえばそれまでの話だが、死生観に関する根本的なところにぐらつきのある人は信用を失い、結局忘れられていくのだろう。少なくとも私にとっては、これを聞いた時点で過去の人になってしまった。

この人の著作物は全く読んだことが無いので、その文学的価値については何とも言えない。また、生きてきた70年間でこの人との関わりといえば、尖閣諸島買い取り資金として少額の寄付したことと、小学校入学の頃に従兄が頭を慎太郎刈りにカットして自慢していたことくらいだろうか。全国区で立候補していた頃はまだ選挙権がなかった。ただ時々紹介される思想的な面では少なからず共感できる部分もあった。

多くのことを成し遂げてきた人で、そういう意味では稀有な存在であったことは間違いないし、思い通りに生きてきた幸せな人だったのだろう。

死後どうなるかは誰にもわからない。全部が無になり、更にはその無すらも無くなるのかもしれない。わからないから不安にもなる。年を取るほどその不安は大きくなっていく。死をどのように捉えるかという問題は心の中で揺れ動く。氏の「無になるのではないだろうか」という発言も、そんな中で出てきた言葉かもしれない。

しかし、生前多くの人に影響を与えてきたし、支持されてきた人にはそれだけの責任があるはずだ。あれほど靖国参拝にこだわった石原慎太郎氏だから、靖国に祀られた、国のために死んでいった人たちのことが頭にあれば、無になるという言葉はでてこないはずだし、言ってはいけないのではなかったのか。或いは89歳という長寿が言わせたのかもしれない。年齢とともに精神の老化は誰にでもやってくる。

伊藤一刀斎も、弟子の神子上典膳に一刀流秘伝を伝えた後、姿を消した。今の時代に姿を消す必要はないが、ある程度年を取ると口を閉じるということも必要なのかもしれない。そうすることが石原慎太郎氏には及びもしない、何の影響力もない市井の老いぼれにとっても、老後を楽しく、周囲と摩擦を起こさず生きる秘訣といえるのかもしれない。