無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9389日 平成6年渇水

7日の夜はスマホの警報が鳴ったり、スピーカーから流れる避難指示、更には雷鳴まで加わって何回も起こされた。ここはもともと自然災害が少ない住みやすいところで、台風もほとんど来ないし、たまにやってきてもその多くは「口ほどにもなかったな。」と過ぎ去った後に笑われるのが関の山だった。

瀬戸内は水が少ないので雨は降ってもらったほうが良いんだが、水瓶と呼ばれている近くのダムは小さなバケツのようなもので、そんなに貯めることができない。いくら降っても多くは海に流れてしまう。

もう一つの水源である地下水の方は、降れば降るほど水位が上がってくるので、いくら降っても無駄にはならない。ただ、この豊富な地下水があったことが、人口がこの60年で4倍になった今になって、水不足を引き起こしているんだから皮肉なものだ。

当時の市の責任者は人口増加を予測するできなかったんだろう。地下水があるので飲料水が不足することはないとして、建設されるOダムの飲料水の水利権を買わなかった。工水と農水は購入していたので、平成6年の渇水時にも導水管を通ってごうごうと流れてきていたが、いくら流れていてもこれを上水道に使うことはできなかった。

さすがに断水が1日19時間になると、住民の生死の問題になってくるので、超法規的措置として、導水管から一度川に流して、その水を取水口から取り入れるということをしてなんとかしのぐことができた。

近くのダムの水も完全に干上がり、死水いう言葉をこの時初めて聞いた。底にたまった水のことをそう呼ぶらしいが、最初ニュースでは「しにみず」呼んでいた。縁起でもない呼び方でちょっと話題になった。その後「しすい」となり、更に底水(そこみず)呼ぶようになった。

給水制限は4か月に及んだが、そのうち8月22日から2か月間は19時間断水だった。これに懲りた市民は以後節水に努め、上水道の使用量は大幅に減少した。これで市も市民もウィンウィンでめでたしめでたしというところなんだが、これが水道料金値上げにつながったんだから、世の中うまくいかないものだ。