無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7271日 警視庁物語

最近、昭和二十年代から三十年代にかけて制作された『警視庁物語』という刑事ドラマを観る機会があった。かつてテレビ放送が始まったばかりの頃に放映され、のちには映画シリーズにもなったこの作品群。白黒の画面に、やや不鮮明な音声。簡素なセットに、今の目で見ればずいぶんと地味な映像である。ところが、である。観はじめると不思議なほど面白く、ぐいぐいと引き込まれてしまった。

ストーリーは捜査会議からはじまり、刑事たちが手分けして捜査に走り、聞き込み、逮捕に至るまでを実に簡潔に描いていく。テンポが早く、台詞も無駄がなく、説明くささがない。登場人物の誰もが黙々と役割を果たし、職務に忠実だ。刑事たちの言動には戦後日本の秩序を取り戻そうとする強い意志と、庶民の正義感が滲んでいる。事件の背後にある貧困や人間の弱さにも目を配っており、実に見応えがある。

もちろん当時の技術は今のように進んでいなかった。照明も限られ、屋外ロケは最低限、音声も時に聞き取りづらい。だが、むしろその不完全さが、かえってリアルさや緊張感を高めていたように思う。限られた条件のなかで、作り手たちはどうにかして視聴者に真実味を伝えようと工夫を凝らした。抑えた演技、無駄のない編集、そして何よりも「面白くしよう」「真面目に作ろう」という熱意が、今も画面から立ち上ってくる。

一方、今のテレビドラマはどうだろう。映像は美しく、照明も洗練され、カメラも自在に動く。俳優も華やかで、CGや効果音がふんだんに使われる。しかし、何かが足りない。たしかに情報は豊富で刺激的だが、見ていて心に残るものが薄い。映像の完成度が高いぶん、観る側の想像力が入りこむ余地がない。登場人物の心情まで映像や音楽で「説明」されてしまうから、視聴者はただ受け取るだけになってしまう。

昭和のドラマは違った。観る者が画面の先を読み取る力を求められた。刑事が煙草をくゆらせながら黙って考え込む。その間(ま)には、音楽もナレーションもない。ただ静けさと役者の顔がある。だがそこに観る者の心は自然と重なり、想像が走り出す。これは、決して「懐かしさ」だけでは片づけられない、作り手と受け手の真剣なやりとりだったのだと思う。

映像文化が便利になればなるほど、私たちは知らず知らずのうちに想像する力を手放しているのかもしれない。手作業で一つひとつを丁寧に積み上げていた時代の作品には、技術以上の「人の気配」がある。それが時を越えて、今なお心を打つ理由だろう。

『警視庁物語』の粗削りな画面の向こうから、私は確かに、あの時代の空気と情熱を感じた。きらびやかではないが、真面目で、誠実で、面白い。それはまさに、日本のテレビが持っていた原点の輝きであるように思えてならない。