無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7306日 人に頼ることの大切さ

人生の最期は一人で迎えるものだと頭では理解していても、実感としてはよくわからない。若い頃は、70歳にもなれば自然と覚悟が定まるものだと思っていたが、実際にその年齢を過ぎても、なお手探りのままである。

86歳になる独身の友人Gさんが、最近になって急に自分の最期を強く意識するようになった。老人ホームへの入居も決めたが、それで不安が消えたわけではない。むしろ、 どのように人生の幕を引くのかを考え始めると、夜も眠れなくなるという。兄弟も高齢で頼れず、甥や姪に負担をかけるのも気が引ける。金銭的な心配はないが、認知症になったときの不安が大きく、その時に自分の判断を託す相手がいないことが、何より心細いのである。

相談の末、私が任意後見人を引き受けることになった。もっとも、実際に役目が生じるのはGさんが判断能力を失った場合に限られる。それでも責任は軽くないため、家族とも話し合い、先に私が認知症になった時には妻や長男が引き継ぐ形を整えた。こうしてGさんは一つ安心を得たが、次に立ちはだかるのが、長年暮らした家と膨大な持ち物の整理である。

八十余年の蓄積を処分する作業は容易ではない。だが、これを終えなければ前に進めない。進め方としては、まず重要書類や本当に残したいものだけを選び、それ以外は人に譲るか処分するという割り切りが必要になる。思い出は物に宿るのではなく、自分の中に残るものだと考えなければ、手は止まってしまうだろう。

とはいえ、こうした準備をどれほど整えても、不安が完全に消えることはない。認知症への恐れも、死の迎え方への迷いも、誰にとっても避けがたいものだからである。大切なのは、それらを消そうとすることではなく、不安を抱えたままでも日々を過ごしていく覚悟なのだと思う。

人は最期の瞬間を選ぶことはできない。しかし、そこへ向かう日々の過ごし方は選ぶことができる。誰と会い、何を感じ、どのように一日を終えるか。その積み重ねが、結果としてその人の最期のかたちを静かに形づくっていく。

結局のところ、人は一人で死ぬ。しかしそこへ至る道のりまで孤独である必要はない。誰かに少しだけ頼り、少しだけ任せながら生きていく。その不完全さを受け入れることが、穏やかな終わり方につながるのではないかと思う。