無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8624日 静かなお盆

昨日の夕暮れ時に迎え火を焚いたから、両親の霊も仏壇のあたりに帰ってきているのかもしれない。ひょっとしたら去年死んだ小太郎も、50年ほど前に死んだぺスも帰ってきているのかもしれない。それならさぞやにぎやかなことだろう。別に待ち遠しくはないが、あと8654日たてば自分自身も仲間入りする予定だから、その時になったらわかるだろう。

10日に墓掃除に行って、12日に仏壇も掃除した。仏壇にお供えもしてお盆の準備は整ったが、長男一家がコロナに感染したことで、濃厚ではないが接触者ではあるので、念のため今日14日の坊さんは断っておいた。本当にのんびりした静かなお盆だ。こんな穏やかな日がいつまでも続いてほしいと願わずにはいられない。

お盆になると亡くなった人のこといろいろ思い出すが、それも年々記憶が薄れていく。母親の若い頃を知っている人は、数年前に従兄のJさんが亡くなって誰もいなくなってしまったし、父親のことは叔母に聞けばわかったが、その叔母も90を過ぎて少し頭があやしくなってしまったからもう無理だろう。思い出す術もなく、たとえ思い出したところでそれを共有して一緒に笑い合える人は誰もいない。それが一番寂しい。

ここ3年程はコロナで葬式も法事も行われない。この歳になると、葬式や法事が親戚連中との唯一の接点として機能してきたんだが、それが無くなったので、自分の代までは大丈夫だが、子供の代になると家同士の関係を維持していくことも困難になるかもしれない。田舎でもそうなんだから、都会の方ではなおさらだろう。コロナのもたらした影響は案外そういった精神的な面に現れてくるのではないだろうか。

明日は大東亜戦争終戦の日で、例年の如く外国の主張を垂れ流す特集番組が流されることだろう。腹が立つのでテレビは見ないが、女房がつけるのでそれまで止めることはできない。今日の昼もこちらの民放で、夏の暑い日には韓国料理参鶏湯(なぜか「さむげたん」が一発変換できる)が一番などと絶叫していた。暑気払いに参鶏湯などという日本人がいったい何人いるんだろうか。

日本とは日本人が作る国であり、日本人は伝統を守って子孫に残していく責任があるはずだ。変えていいもの、変えてはいけないものを自分自身で認識できるよう、子供たちに伝えていくことが大切ではないだろうか。