近年、熊が人里に現れる事例が急増している。民家の軒先や小学校の校庭、果ては市街地のショッピングモール付近まで出没するニュースが珍しくなくなった。こうした熊に対して駆除を決定すると、自治体には「かわいそうだ」「殺すな」といった抗議の電話やメールが殺到するという。だが、本当にそれでよいのだろうか。
「熊との共存」という美しい理想がしばしば語られるが、それは冷静に考えれば不可能である。野生動物は基本的に人を避けて生きている。しかし、一度人間の生活圏に入り、食料を得る体験をした熊は、記憶力も学習能力も高いため、執拗に同じ場所に現れるようになる。そして、次第に人を恐れなくなる。そうなれば、もはやそれは「共存」ではなく、「侵入」であり、明確な脅威である。
思い出すのは、かつて長い間行われていた野犬の捕獲・駆除である。昭和の頃は、野良犬が路上にあふれ、狂犬病の恐怖が身近にあった。だが、行政と市民の協力により、地道な捕獲・予防接種・殺処分を重ねた結果、日本は狂犬病清浄国となった。その過程は、決して「情け深い」ものではなかったが、命を守るための必然であった。
私が子供の頃に見た映画『黄色い老犬』では、狂犬病にかかった愛犬を、家族が涙ながらに銃で処分する場面が描かれていた。愛情と理性との衝突は観ていて胸が痛んだが、それが現実というものだと幼いながらに理解した記憶がある。動物愛護の精神は尊いが、それは人間の生活と命が守られて初めて語るべきものであろう。
野良犬一匹なら、棒を持った人間が勝てるかもしれない。しかし、人里をうろつく野良熊に対しては、人はあまりにも無力だ。体重300キロを超え、時速50キロで走り、木にも登れる。鋭い爪と牙を持つ肉食の獣に対し、素手の人間が抗うことは不可能である。
また、熊はペットにはなれない。動物園で飼われているような個体は例外中の例外だ。つまり、人里に現れる熊とは、どう折り合いをつけても「排除」する以外の方法はないのが現実である。
抗議を恐れて銃を使わない、駆除を見送るという判断が続けば、その地域は熊に明け渡すしかなくなる。北海道や東北の中山間地域など、多くの過疎地では既に高齢化が進み、若者が戻ってこない状況にある。そこへ熊の脅威が加われば、農林業の継続は困難となり、人の住めない「野生動物の王国」になってしまうだろう。
我々は「熊を絶滅させろ」と言っているのではない。人間と熊との棲み分けを明確にし、その境界を破る個体に対しては毅然と対処する。そのためには、感情ではなく、科学と地域住民の声に基づく管理方針が必要だ。人間の居住圏を守るために、個体数調整や駆除は必要な措置であり、責任ある社会の選択である。
熊の命も大切だが、人間の命はそれ以上に守られるべきものである。その原則を、今こそ社会全体で再確認すべきだ。