無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8676日 希望があれば

この間80歳の独居高齢者Nさんのお宅を訪問した時に、いつの時代が一番良かったかと言う話になった。その時Nさんは、「店に行けば何でもあるし、交通機関も発達して便利な世の中になったけど・・・・今と比べると昔はお金も物も無かったけど、毎日がにぎやかで楽しかった。明日は今日より、来年は今年より良くなるという希望があった。その点今の若い人たちは気の毒ですね。」と話していた。

昔は金を持っている家といえば、開業医とか一部の自営業者くらいで、公務員などは安月給の代名詞だったから、ほぼ全員が貧乏だったといっても過言ではない。近所同士で醤油や米の貸し借りも普通に行われていたし、家族旅行など夢のまた夢、海外旅行なんか月に行くのと同じ感覚だった。しかしその頃は貧乏だったといってもそれが当たり前だった。結構楽しかったし物質的にも精神的にも貧乏だという感覚はなかった。もちろん親も多少無理してくれたんだろうが、希望さえがあれば貧乏には負けないものだ。

もっともNさんの実家は辺鄙な農村だったが、村で唯一の雑貨屋をやっていて、高校生の頃には家に小型トラックがあったというから、貧乏という感じではなかったようだ。

私が高校生になったのは昭和42年だった。大学進学を目指すなら、東、南、北の3県立高校のどれかに受からなければならないが、当時は倍率が2倍近くあったので、落ちる者もたくさんいた。ただ、試験は9科目一発勝負だったので、今のように内申書によるさじ加減が無かったぶん平等だったといえるかもしれない。

この頃に一度だけ父親に兄弟二人のうち一人は医者にならないかと言われたことがあった。二人そろってあんな病人相手の仕事は興味ないと答えたら、そうかと言って黙ってしまった。その気になって頑張ればなんとかなったかもしれないが、それぞれ海上自衛官や商船士官になりたいという希望を持っていたんだからそれはしかたがない。

医者と言えば、昭和45年頃から新設医大がぞくぞくと登場し始めた。川崎、杏林、北里とか、同級生も何人か入学した。もちろん開業医の息子や自営業者の息子だが。中には高校3年まで私立文系コースにいたのに、突然新設医大に入学してみんなを驚かせた奴もいた。噂では代議士に頼んだとか言われていたが、普通に考えたら理科も数学もやってないのに受かるわけないわな。

それが面白いことに、今ではその頃の経緯なんか誰も覚えてないので、患者の間では私立文系コースから医学部に合格できたのは、逆に優秀だったからだということになっているらしい。まあ本人も立派な医者になっているようだから、とにかく入学の関門さえ何とかして突破してしまえば、後はなんとかなるようだ。

コロナで暫くやってないが、中学の同窓会をやっても集まるのはだいたい決まっている。当時一緒に遊んだ友達の多くは希望を持って都会に出ていって帰ってくることはない。みんな団塊世代の末端として経済成長に貢献して、じいさんばあさんになってしまったが、それぞれの土地で根を張って死んでいくのもそれはそれで立派なことだ。そんなこんなでいろいろあった人生双六だが、あがりを引くまであと少し。今更希望でもないが、今この瞬間が一番と考えて1歩でも2歩でも前に進むことが肝要なのかもしれない。